中国医学は薬物を用いた治療と鍼灸やあんまなど、経絡を用いた治療などが長い年月をかけて理論統一されたものです。今回はあくまで漢方医学の源流としての中国医学ということで、薬物療法の歴史のみを簡単に紹介します。
中国では「医食同源」という考え方が広がっており、食べ物と薬の源は同じとされています。この「医食同源」について語る時、「神農」は外すことが出来ません。「神農」は古代中国の伝説上の人物で、農耕と医薬の神とされています。 その昔、人間は手当たり次第にものを食べていたため、病気になる人がたくさんいました。そこで神農は自らが実験台になり、あらゆるものを食べて吟味し、体を丈夫にする食べ物(上品)、治療や養生に使う食べ物(中品)、毒にも薬にもなる食べ物(下品)の三つに分類しました。その結果をまとめたものが『神農本草経』という書物です。 もちろん、神農は伝説上の人物ですから、この書物は薬物に精通した集団あるいは一族によってのちの時代にまとめられたものです。 このあと時代ごとに薬の種類が追加されたり、分類が細かくなったりと、さまざまな改良が加えられ、明の時代、1578年に李時珍によって『本草網目』が記され、本草学は完成しました。ちなみに『本草網目』は草類や動物類の薬物に対して、世界で最初に科学的な分類を行ったことでも知られており、ヨーロッパでは植物分類はカール・フォン・リンネが『自然の体系』という著書 を1735年に記して確立したとされていますから、李時珍より二百年ほど遅れていま す。また、『本草綱目』は前人のたくさんの間違いや表現のいい加減にしたところを修正したり、はっきりさせたりして、新発見の薬物や薬物の効能などを追加し、それ以前の医学著作にある迷信な言い方を批判した点でも、画期的な書物といえます。
また、現在では漢方薬は煎じて飲むものというイメージがありますが、最初から煎じ液が主流であったわけではありません。これも後漢の時代に張仲景によって記された『傷寒雑病論』で、温液療法として確立されたものです。 温液療法が登場するまでは、生薬を散剤や丸剤で内服していました。しかしこれでは複数の薬剤を投与すると偏りが生じる危険がありました。温液療法は煎じることで薬効成分を水に均等に溶け出させます。それで、複数の生薬組み合わせる際に、微妙な調節(調合)が可能になりました。この結果、漢方薬が飛躍的に発達したのです。
先の『傷寒雑病論』はその後も中国医学のバイブルでありましたが、明の時代から清の時代にかけて、中国では『傷寒雑病論』の治療法では対応できない疫病がいくつも登場した。そこで呉有性が『温疫論』を記し、温病論という考え方が広まり、独自の展開をみせます。
ただ、この時代、日本は江戸時代で鎖国をしていたために温病論の考え方は広まりませんでした。これは日本の漢方医学を考えるうえで、重要なポイントです。 江戸時代に、日本の医学者たちは何をしていたのでしょう?
反論を承知で、わたしの考えを述べます。
『傷寒雑病論』を徹底的に研究、解析しました。その結果、中国医学の最大の欠点である形式尊重主義を排除しました。それは明治以降の日本において西洋医学と漢方医学がともに発展する基礎になりました。
では、江戸時代以降の日本の漢方医学の歴史を次にお話します。
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